武者小路実篤について書くのはもう何回目か
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今までにも書いたことがあるのですが、
わたしがこの人に持つ気持ちは
かなわんなあ
です
ご高説は賜りません
大上段に何かを訴えてはいません
しかし
敵わないのです
今回は、
今までは少しだけ触れていたエピソードを詳しく紹介しつつ、
事実と憶測
そこからわたしが受ける武者小路実篤を書きます
画家、岸田劉生(きしだりゅうせい)とのエピソード
>顕著なエピソードがあります。
>白樺派ではないんですが岸田劉生という画家がいまして
>武者先生は彼を大変可愛がっていました。
>「麗子微笑」などが有名な方ですね。
>この人はかなりエキセントリックな人で、
>家族仲良く気分良く、道を歩いていたときに、
>打ち水が腕にちょっと掛かっただけでその部分を指し
>「俺の腕を切れ!」
>と叫びだす人で
>麗子ちゃんの肖像を描くときも、当時5歳の子供に
>休みも与えず、ずっと同じポーズを5時間もさせていたという逸話もあり、
>自分の才能を信じて、その創作に妥協しなかった人ですね。
>そういう人の周りはそりゃ大変だったと思います。奥様も麗子ちゃんも。
>友達もひとり去り、ふたり去りしていったときに、
>その才能を愛して援助を惜しまなかったのが武者小路実篤でありました。
「武者小路実篤」より抜粋
これのですね、この部分
>麗子ちゃんの肖像を描くときも、当時5歳の子供に
>休みも与えず、ずっと同じポーズを5時間もさせていたという逸話もあり、
>自分の才能を信じて、その創作に妥協しなかった人ですね。
このときに武者先生がいった言葉にわたしは、思わず笑い出し、うーんと唸ったのです
麗子像

誰しもみかけたことがあるのではないでしょうか
教科書にも載ってますし
この麗子像は一枚だけでなく何枚もあります
繰り返し繰り返し、
愛娘の麗子ちゃんを描いている
前述したように、この岸田劉生(きしだりゅうせい)という画家は
自分の作品に妥協せず、
モデルである麗子ちゃんを5時間も6時間も同じ格好で
休憩もほどんどとらなかったというお話があります
この話を聞いてどう思いますか
・5歳の子供に酷なことだな
・芸術とはそういうものだ
ようような意見があるでしょう
実際、可哀想だ、と止めた者もいたのです
しかし岸田劉生は、抜粋したような部分も持ちますので、
人の意見を聞き入れて、自分の芸術を曲げる、ということはしませんでした
この人のもとから人が去っていくこともある中、
武者先生は援助し続けました
……
てね、
ちょっといい話がしたいってのとは違うんですよ
わたしが真に言いたいのはそこじゃない
武者先生は、
麗子ちゃんがモデルをやってる状況をきいて麗子ちゃんに
こう言ったんです
「麗子ちゃんはえらいなあ(^∇^)」
確かに!
えらい
えらいんですよ!
子供を産んで育てたか、
もしくは子供が生活の近くにいる、
仕事で子供と関わっている
などなど
子供と密接に関係すればするほど、
5歳の子供が5時間も休憩無しでじっとしている…ということを考えるに
すんごいことです
それも描いた肖像画は1枚や2枚ではない
じゃあどうして麗子ちゃんはじっとしていられたのか
こっからが憶測です
今までは事実
わたしには麗子ちゃんは、お父さんのことが大好きに思えるのです
絵を描くお父さんが
打ち込んでいるお父さんが
自分を描くお父さんが
そして、このモデルに誇りをもっていたように感じます
例えば、上記にあげたエキセントリックな行為から見て、
岸田劉生は激情しやすい人だった…
ゆえに恐怖や圧力でいうことを聞かせていた、と見る方もいるかもしれない
しかし恐怖だけでやっていたのならあの表情がでるのか
人が何かに耐えうるのは恐怖より誇りではないのか
5歳の子供
わたしは子供というのは、いろんなことがわかっていると思います
わかってない子もいますが、わかっている子はとんでもなくわかっています
自分は何も考えてなかった~という人は大変幸せなことですので親御さんに感謝してください
閑話休題
ですので5歳の子供をみくびってはいけない
それがどういうことか、自分の中の何がそうさせているか
そんなことは考えなくとも、
感じたり、真実にたどり着く子はいるのです
もし誇りをもってモデルをしていたのならば、
彼女は何を言われたら一番嬉しかっただろう
わたしは、武者先生の言葉だと思う
他の人達が言ってきた、
例えば、
・かわいそう
可哀想って失礼な話ですわ
当事者の想いを無視する可哀想は本当に余計なお世話
例えば、
・当然だ
自分が思うのはいいが、他人に言われたかぁ無えyo
おまえが5時間も休憩無しで座ってるわけじゃないだろーが!
って5歳のときに言えなくても
もやーんな気分になる
ここまで考えていた、までは憶測してません
でも、そのときに感じた「想い」は小さくても覚えているものではないか…と
わたしには思えます
「麗子ちゃんはえらいなあ」
これは、麗子ちゃんにとって、ほしかった言葉なんじゃないかなあ
武者先生は坊ちゃんであまり苦労してなくて
家も由緒正しくて、金にも困ってませんが
そういう人だから言える言葉や
そういう人だからやれる行動がある
こういうタイプの人に、「世の中っていうのはなあ~」と言われたら、
ボンボンがわかった風な事いいやがって( ゜д゜)、ペッとなりますが、
世の中のことをわかったように説教したりはしない
かといって、苦労してないことに引け目も感じない
この圧倒的な自己肯定は純粋培養でこその珠玉
武者先生は太陽みたいで、まぶしすぎることがあるけど
やっぱり人は太陽がないと生きてゆけないのです
はい、ここまでが憶測です
その後、武者せんせいと岸田一家は家族ぐるみのおつきあいをずっとしてゆきました
これは事実
岸田劉生のドキュメンタリー特集を以前にみたことがあります
美の巨人たちです
かなり前です
そのとき、岸田劉生にあてた書簡が読み上げられ、
最初に
誰からのものか…
というのは明かさずに読み続けました
途中で、
これ…武者先生じゃね?
って思ったら
やっぱりそうだった
文章はいくらでもつくったり着飾ったりできるけど、
根本的な思想や考え方というのは出るものです
特に、世に発表しようと思って書いたものでない、こういう書簡は顕著だと思います
この「言葉」というやつ
「文章」というやつ
もちろん言葉だけならどのようにも使うことができる
しかし言葉は軽いわけじゃない
言葉は力を持っています
その言葉が信頼たるものかどうかは
行動が伴うことによって積み重ねてゆくのだ、と思うのです
どんなに良いことを言っても、行動が伴わなければ信頼は得られないでしょう
武者小路実篤は
特に大上段にかまえて何かを言うわけではなかったですが、
その小説やエッセイや
書簡などの言葉の端々に
この、世の中を愛していることが感じられ
疑っておらず
すれておらず
なんだこの純粋培養は…なんて思ってしまうくらい
圧倒的なわけ
そして
その生き方を90歳で亡くなるまで貫かれた
ここがすごい
ボンボンだけど
貫けばなんだって真実になる
貫いて死ねばその人の人生は一貫して終わる
それを言葉だけに終わらず
行動を伴って証明した人
40歳すぎてから絵を描き始め、
バイタリティあふれる武者せんせい
「人生は楽ではない。そこが面白いとしておく。」
ほんとそうですね、武者先生
先生にはかないませんわ
こういう性質の人にわたしは圧倒され、平伏します
だから武者先生が好きなんです
たまに直視できないけどね
ののたんもこういう類の人だなあって思う
後、X-MENのプロフェッサーにもこの太陽を感じた
ボンボンなに言ってやがる!という感情が芽生えたとしても、
闇属性はそこに抗えないものがあるのだ、ということ
自分と全然違う人、自分と似ている人
どちらも好きで惹かれる
前者は憧れ
後者はシンクロ、そして愛しい
武者先生は、わたしにとっては太陽です(ちなみにののたんは北極星です)
太陽には遠くから熱や暖かさをいただく
北極星は自分が迷わないための指標
近寄れないけれど、憧れてやまない
そんな人には
やはり
かなわないな
って思うのでした