これ、おもしろいよ
しかし、一青 窈の歌と踊りは全く要らない
ノーセンキュー
以前に宣言した通り、
>なんだかんだでこれから
>テルマエも愛と誠も観に行くと思う
>塀の中の懲りないわたし
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「
テルマエ・ロマエ 【映画】 」も観に行った
そして愛と誠も例にもれず観に行った
映画は映画
原作は原作
とは、わたしは思わない
原作物を使う限り、
原作をいかに違う媒体で表現しているかをみる
知っている作品はもれなく比較することを宣言する
映画を観に行く直前、
車を運転しながら思い返していたことがある
それは「愛と誠」という話は、闘いである、ということ
この話は愛お嬢様とタイガー誠との闘い
愛お嬢様におちないように誠があがく
簡単にいうとそういう物語なんだ
映画は冒頭、
画面いっぱいに文字が連なる
『愛とは闘いである』
わたしはもうここで掴まれたのかもしれない
漫画原作でも映画の冒頭画面に出ていたインドのネール首相が娘にあてた手紙が引用されている
予告をみた段階では、
岩清水の扱いが一番気になっていた
この岩清水、
2012に生きる人間がみたら滑稽と思うのだろうか
予告は彼の言動、「早乙女愛よ、君の為なら死ねる」はギャグ扱いだった
茶化してスカさないと受け入れられない時代なんてクソくらえだ
どこまでスカすのか茶化すのか
現代に受け入れられやすいように、仕方ないねっていうのが心の広い人間の対応か
くそくらえだ
しかし
通してみるとこの岩清水
かなり岩清水だった
いや、岩清水に限らず、
エピソードも忠実に盛り込んでいる
予告と裏腹に、なんとも原作の匂い漂わせる愛と誠なのだ
変えている部分はあっても現代に迎合しているわけじゃない
まともに実は直球勝負なんじゃないかこの映画
誠を演じる妻夫木さんも、
わたしは杉ちゃんくらいのワイルドさか、または
ベツレヘムの流れ星程度のワイルドさなんじゃね?な先入観があった
信号待ちしちゃうくらいのワイルドさ
ところが、
冒頭、西城秀樹のカバー「激しい恋」を歌う彼は
なかなかどうしてこれがまた
ハマっているのだ
大事なので中盤にもいれておく
一青 窈が愛お嬢様の母親役をやって歌って踊って出演している
全く要らない
なぜここまでしつこく言うかというと、
作品中、愛の家族だけ浮いていて、歌おうが踊ろうが作品観になんら貢献していないからだ
歌ったり踊ったりすることはいい
でもこのシーンは必要だからいれたんじゃないだろう
なんかの事情じゃないか?と勘繰るほどに必要ない
例えば岩清水が、「空に太陽がある限り」を歌い踊るのはいい
アイツの、真面目メガネにみえて実はイカレている本質をよく表現していた
この作品は全16巻分を映画として成り立たせるために、効果的な表現がいくつかある
それは歌と踊りでその人となりを表すことであったり、
アニメーションを使ってエピソードを紹介するなど
時間を短縮しながら筋やバックボーンを伝える手段として効果があった
一青 窈(愛の母親役)のシーンはそういう類じゃないってこと
途中、嫌われ松子などでもそうなのだが
歌ったり踊ったりの世界観についてゆけない人は置いてゆかれる
ここについては自分はノれた
茶化しているようでけっこう原作魂が垣間見えることもあってノれる
ただ、冗長な部分もある
松子はテンポの良さが秀逸であったがこの映画は少し冗長な部分を感じた
わたし個人の感性、求めるテンポとしては(長いっ…)と思うところがある
よほど好きじゃないと人のオナニーはみていられないからね
良いも悪いも含めて、
総合的に面白い映画だった
今作のテイストは真剣にやりながら笑いもある
出演者総ボケに囲まれて孤軍奮闘、誠(妻夫木)が一人でがんばってツッコんでいる
ツッコミという行為は通常の感覚を持っている人がやる
だからこの映画では誠だけが一般的な感覚だってこと
ここが2012版として加味されている特徴
それと全16巻の話をずいぶん丁寧になぞっているけど、
ラストどうするの?と思って観ていたら、
こういう仕組みにしていたのだ
じゃ、マウスでかきまーす

わかりますか
途中までしっかりとなぞり、突然ラストシーンをドーンともってきてる
つまり、
原作の話をところどころはしょりながら詰め込んで全体を網羅するんでなく、
冒頭から中盤をはしょらないでいれて、
中盤以降からラストまでばっさり原作エピソードを切り捨ててラストだけ据える
これね、うまいね
違和感ない
原作の愛と誠は、高原由紀、蔵王権太が双方とも愛お嬢様の手におちて
敵から味方に転換する
ゆえに次の強敵が用意される(映画では出てこない、さどやしゅん)
実は原作はこっからの話がクソなんです
正直、クソ展開なんです
ドカベンでいうなら弁慶高校編なわけ
映画でここを切り捨てたことは大きな功績
ただし、一青 窈をいれたことが損失
残念、これさえなければもっといい気分で坂を転がれたのに
ここは重要なのであとでもう一回くらい言う
もちろん当社比だ
さて、原作について長々書きます
愛とは闘いである
この部分は映画で表現されていたと思う
しかしひっかかった部分もある
それは、ズバリ愛お嬢様だ
脳内補完なしに、愛お嬢様の無償の愛は伝わったものだろうか
わたしは「愛と誠」という物語で、感心したことがふたつある
1.愛お嬢様の貫き通した馬鹿さ加減
2.岩清水の献身的な馬鹿さ加減
両方とも貫いた馬鹿だ
物語の中で、終始ブレてないのはこの二人だけなのだ
蔵王権太は愛お嬢様の母性溢れる愛にやられ、
高原も真実の愛にやられて改心する
最後まで抵抗したのは誠だが、
誠も愛お嬢様にやられないようにいつも悪ぶるんだ
その手に堕ちてしまったらもう愛を受け入れるしかない
それは自分が生きてきて感じた持論を捨て去ることだ
じゃあ具体的に愛お嬢様が何をしたか映画にない部分をざっとあげる
・不良が河原のあっちとこっちに分かれて石を投げ合う間に立って石つぶてにさらされる
・蔵王権太VS誠の決闘で誠の頭を地面に打ち付けて殺そうとしていたのを滑り込んで胸で受け止める
・蔵王権太が早乙女宅に不法侵入して警察に咎められそうな事件があったが権太の父親に頼まれて権太を庇う
(権太は母親が銃で撃たれて生まれ落ちた子で、父親は生まれの不憫さもあって溺愛しているが少し足りない。彼を庇うために、愛は全校生徒の前でわたしが権太さんを侮辱したから権太さんが怒ったのです、と虚偽の告白をした←愛には全くメリットはないが、権太父の想いにうたれて。その後学園のマドンナは豚だのカスだの言われボロボロにされる)
・ストリップしそう
誠さんのためなら恥辱にも耐えるわ
愛が覚悟を決めたのは終盤、グアムに行ってラバーズ岬に立ってから
ラバーズ岬という地名とはかけ離れた断崖
そこにまつわる伝説を聞き(身分違いの男女が二人で抱き合って周りの反対を押し切り崖から海に飛び込んだ)、
後に発見されたというグアムの森の中に絡まるふたつの幹、
ジャングルの中に明らかに違う種類の幹が絡まりあうその姿
飛び込んだ男女の生まれ変わりともとれる白と黒の一体化した幹をみてから、
愛とは闘って勝ち取らなければいけないんだ、とふっきれる
そっから馬鹿に加速がつきます
とにかく馬鹿
馬鹿正直に馬鹿
でも
馬鹿にしか、できないことがあるんだ
…と納得できる
馬鹿正直に生きて損をしてきた人間は、
つまり太賀誠は、それに懲りて自分を防御するようになった
自分が諦めた部分を、自分が貫けなかったものを愛お嬢様の行動にみる
余裕があるから、ブルジョアだからできるんだろ?施しをよ、愛お嬢さまよ
このように、誠はいつ愛が尻尾をまいて逃げ出すかと、何度も試すようなことを言う
早乙女愛は、
最初は幼い頃に自分のせいで怪我をさせた罪悪感、義務感から誠を庇う行動をしていたように思えたが、
いや、そう思おうとしていたが、
次第にこれは自分が誠を心底愛しているからだと愛自身が気づく
体裁や地位、名誉、その美しい顔と身体に刻まれる傷、なんであれ早乙女愛の前にたつ障害は意味をなさなくなり迷いがなくなってゆく
そんな早乙女愛の身の投じ方は、
安全なところから、できる範囲で施すブルジョアの域を超えて誠に迫ってくる
もうひとつ突っ込んで言うと、
誠への献身は利害関係があるからやるんだろう、と疑われる可能性がある
誠への贖罪、誠に愛されたいから
などなど、尽くすことは愛にとっても利益のあることであるから、
私利私欲や自身の都合が誠意、献身というものに形を変えただけではないかと疑うこともできる
しかし、蔵王権太への対応はどうか
重要なのはここ
早乙女愛にはなんのメリットもないのだ
ひとつも欠片も
誠でさえも物陰から(これはあまりに高い代償だぜ…)と呟くほどだ
この行動をみて誠は早乙女愛の無償の愛は本物ではないかと心の中で思い始める
ここがターニングポイントだと思われる
世をすねて僻んでいた自分(太賀誠)
同じ立場だったらそんなお綺麗な事を言えるかよ?という最後の防波堤を早乙女愛は超えてくるのだ
だからこそ、愛お嬢様の手に堕ちるわけにはいかない
誠は愛お嬢様を認めてしまうと、自分を肯定できなくなる
こうやって抵抗し続けるから16巻にもなったんだわな
この映画の愛お嬢様は、馬鹿正直というよりは勘違い女
たいした犠牲も払っていない
エピソードは忠実に盛り込んでいるが、愛お嬢様の感性が違う
おまえだよ、いやおまえだよ、と
誠に二回突っ込まれるような勘違いした部分は無いんだよ
映画くらいの自己犠牲程度で、
誠が自分が生きてきた今までを捨て去って(屈するしかない…)と
思いますかね?
それが観客に伝わりますかね?
ここは自分は脳内補完してるんでわからない
誠がおちる理由は『屈服』ですよ
コイツ、勘違いしてるけど…ちぇっ、しょーがねーなぁこの女←これではおちないんですよ武井ちゃんがいくら可愛くてもね
心底、屈服したように感じましたか?ってことを原作読まずに映画をみた人に聞いてみたい
武井さんは可愛かったですね
姫カットも似合う
ビジュアルは大体みんな合っていました愛の両親を除き
特に母親役の一青 窈はないわー
はい、3回目
次、岩清水の馬鹿
これは案外表現されていたと思います
岩清水も終始一貫、貫いている
映画でもそうだったと感じた
少しギャグにはされていたけれど貫いていた
総合的に面白かったです
昔の歌も効果的
よかった
ガム子もよかった
ただ最後にもう一回言うと、一青 窈が残念だ
現代版の歌としてかりゆしの曲は合ってるが一青 窈はそうでもない
…と自分は感じた
あの頃の時代感を笑うつくりかと思ったら実はドストレート
総合的にはおっけー
まる
満足感は面白さに比例しない時がある
原作ファンは満足感を重視するんではないかな
そういった面では自分は満足感もあった
もろ手を挙げてではない
それでもこれは
「愛と誠」だ
まる