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森下の暮雨

安吾の桜の森の満開の下を読みなおし泣きそうになる

安吾の中ではそこまでアクの強い作品ではないと思うのだが、
(一般受けがわりといい模様)
いつもこれを読むと泣きそうになる

でもその涙の意味は昔と今では違う気がする

今まではどんな文学作品でも、文学以外の作品でも、
その文学性や作家の人間性において心を震わされていた
今は自己投影型の感じ方になっているときがある

どちらにせよ感じるのは自分に他ならないわけで、
別にどちらだっていい話なんだが、
自分自身の身の流れを感じるとなんともいえない気持ちになる

孤独がどこから来てどこへ行くのか
孤独と連帯の関係を示しているのは桜の森の物語の方だろう

夜長姫と耳男、これも久しぶりに読んだ

耳男がタクミについて述べていることと、
安吾のスタイルがどれほど一致するのかは分からない

しかし職人やものつくりにおいて、
生み出す苦しみに対する懐かしさや畏敬のようなものへのゆるぎない信頼は、
あるいは共有できる感覚かもしれない

まさに臥薪嘗胆して恐怖だろうが呪いだろうが、
あらゆるエネルギーをぐねぐねどばどば
何が何でも出して出してひねり出して凄惨に愚直に戦い続ける耳男は、
己の業と魂に対して健気なほどひたむきだ

何が何でも視線をはなすなという教えを死守するのは、
そのもののすべてを見極めようという連綿としたタクミの遺伝子に違いなく、
耳男は見るものを信じきるために、疑いきろうとする
信じきるための疑い
つまりそれは試されているのだ試しているのだ

安吾のどうにもならないことをどうにかしようとするかどうかの意識が、
ヒメと耳男に通じて感じられるような気がした

でも、どうにかしようとするが、最後には死んで消えてなくなるところは、
どうしようもなさに対する安吾の出した結論なのか


殊に女と男について、
その惹かれあいなお違うもののドンヅマリのところにあるどうしようもなさと、
安吾も戦っていたのだろうけれど

そして安吾は終わりに向かう人ではなくて、
始まりをつくろうという人だと私は感じている

結論をキッパリと言い切ったとしてもそこが決して終りではなく、
その結論の向こうにまた戦場があるような…

彼にはそういう意識の昂りがあるのだと思っている
落伍したどん底から上を見上げるということ
それが、ヒメの最期の言葉にあるのだろうか

「好きなものは殺すか呪うか争うかしなければならないのよ」

そこに安吾がどういう気持ちを込めたのかは、
ただその言葉の表面の意味に留まるところではないだろう

もっとも濃厚に宇宙の縮図を掴めると、
古今東西の詩人が何千年と歌い続ける男女の世界を、安吾もまた貪欲に狙う

安吾はけして「女側」の人間ではないが、
女が自ら女を実感するという部分だけでなく、
「男側」から捉えられる女というのもまた、ひとつの本質というべきだろう

多くそれは理想論であるが、
しかし理想と現実の狭間で揺れ動く不確かな像の、
その不確かさが逆説的に確かな女の像であるのだ

女と男には直感的な連帯がある
それはとりもなおさず性愛や肉感的な連帯だ
最も理解したいものを理解できない、
あるいは理解して欲しいものが理解されないという表面的な部分
多くすれ違いが生じるが、本来必要なものはただ生と性の勘のみであり、
その直感が信頼するに足るものかどうかは自身の生き方による

構造はいたってシンプルだがあまりの鮮やかな色彩に目がくらんで捉えがたい性質だ
しかしわたしは自身のこの勘を信ずる
自分を預ける相手であるのか足るのか
判断する方法は人それぞれあるのだろう


いつもいう細胞の反応とは

その人の何を知って感じるかというと、
実は何もしらない状態であっても感じるものがある

知り合い、話をし、考えを知り、生い立ちを知り、癖を知り、ほくろの位置をしる
そうやって積み重ねていってたどり着くのではなく、
最初から感じるもの
それが細胞の反応である
わたしは自分が感じるこの感覚を信じている
自信があると置き換えてもいい
その人のことを深く知り、「やりたい」に行き着くのと、
その感覚を信じて、「やりたい」に行き着くことに差異を感じない
もちろん時間的な差異はあらわれる
後者のほうが圧倒的に短時間である

深く知ってから行き着く人は、
様様な情報を知ることで自分を納得させたり、それが信用するに足る条件なのだろう
反対に自分を含み、
細胞の反応を信じて行き着く人は、自分のその感覚が感応することが条件なのだろう
そして、どのような方法で信じ、実行しても、
平等に失敗も、成功もあるのである
10年つきあって信用したからその後何も起こらないか?
起こるときもある
細胞の反応を信じてすぐに実行したら何も起こらないか?
これまた起こるときがある
そして、永遠につまり死ぬまで死んでからも
その信じた気持ちを持ち続けられる可能性もどちらにもあるのだ

人は経験則でものを言う
よく知ってからがいい…という人は自分がそうだったからであろう
知らなくてもピンときたら大丈夫…という人も同じく、自分がそうであったから
自分がどっちであるか
それは明確にわかっているが、
違う考えや、方法論がある、ということを僭越ながら理解している
わたしが理解しているのは「違う」ということのみで、
どちらが「良い」ということはわかっていない
自分自身の価値観で生きるのみ
なので何かに先導される余地がないのである

説明するとまわりくどい
これを自分の第三の脳はわかっていて瞬時に判断する
この、「なんとなく」の感覚が正しいと感じる

本をみて改めて考えたこと
あらためて自分の第三の脳への帰属性を思う


20091002記





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