しあわせのパン 【映画】
原田知世、大泉洋
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『わけあうたびに わかりあえる気がする』
そのとき、安けんが軽くからかうように突っ込んだ
「パンぐらい一人ひとつ食べなさいよ!」
大泉はそれを受けてこう返した
「それを言ったらこの映画なにもないよ!」
まさに、
それを言ったらもう何もない
この、
『ひとつのパンをふたりで分け合う』
このことに心がじんわりなったり、
スローなライフを過ごすふたりを
いい、と思えなければ
本当になにもない
ふたりはなぜ、洞爺の月浦(ツキウラ)にやってきたのか
原田知世=りえさんは東京出身
大泉洋=みずしまくんは札幌出身
ふたりはお互いを、りえさん、みずしまくんと呼び合う
少し、距離感を意識しているような呼び方
ふたりがここに来た理由(原因)は作品中でははっきりと語られていない
なにかに疲れ、ただただ好きな人と一緒に、
美味しいパンを食べ、きれいな時も、荒れてる時も一緒に景色をみて
一緒に呼吸し、一緒に散歩し、一緒に月をみたい
来た理由は、好きな人と好きな場所で過ごしたい
それはわかる
でもそこへいきつくまでの過程は描かれない
もちろん描かれなくてもいいのだが、それなら気持ちいい世界だけにいたいのだ
でもそのファンタジーは薄く、かといって現実感があるかというと、
わたしは現実感がないように感じた
こういう話はファンタジーでもいい
素敵な生活
ゆっくりした生活
何かに縛られず、無理に笑顔をつくることもなく、
好きなものだけに囲まれてゆったりと生きていきたい
そんな願望は誰しも大小にかかわらずもっているのではないだろうか
現実だけをみることを映画に求めない
でもこの映画はたびたび現実に引き戻される
わたしはファンタジーに浸りきれなかった
この作品の中でもっともファンタジーな存在は、余貴美子さんの演じる陽子さんだ
耳がよすぎて怖い
でも素敵だ
ではファンタジーに浸れないからと言って現実かというとそれも薄い
要するにどっちつかずで、物語に深みを増そうとやや現実をいれても薄いのだ
何を
どこで
現実感を薄く感じたか
それはセリフではない
言葉で説明されない部分
例えば、
夜に老夫婦の客がやってきて
その老夫婦のご主人はおそらくボケてしまった妻と一緒に死のう、と覚悟してやってきた
老いるというのは生病老苦や愛別離苦というように、
人間の108の煩悩の中にある大きなものだ
この夫婦の様子をおかしい、と思い、
一生懸命もてなしてみずしまくんとりえさんは二人に思いとどまってもらおうとする
そういった現実の辛い部分がところどころ入り、
現実をみせるのかと思えばその対処はなんたるファンタジー
客が来てからポトフをつくる
あったかいものつくりますね、と言うりえさん
凍えている客をもてなすために
そのポトフをつくるときもなんともゆったりとした手つき
ゆっくりゆっくりジャガイモを剥く
そのペースでポトフをつくると、3時間はかかるのじゃないか
この店はこんなポツポツとだけ客がやってきて経営できるのだろうか
スローなライフをするには、お金が必要だ
野暮なことを言っているとお思いかもしれない
でも実際、あんな暮らしはよほどお金に余裕がないとできない
純粋に田舎暮らしをしたい、と思ってしている泥臭い暮らしとはちがう
おしゃれで、好きな家具や好きな食器に囲まれて暮らす
ひとくちにいっても実際に好きなものしか選ばず揃えるとなると、
必要だから使うものさえもそういう観点で選ぶとなると話は全然違ってくる
このような暮らしをしている人はもちろんいるだろう
でもそういう人たちは財源がどこかにある
この二人はそこがわからない
お金がなくても幸せ
それは賛同する
なにかを乗り越えた後に悟る余裕ではなく、この二人の暮らしは表面的に感じる
おしゃれな生活が、とても浮いている
おいしいモノの、上澄みだけをすくってみせられている気がしてならない
そしてたびたび現実に戻る
わたしは入りきることができなかった
「北の国から」のように、
北海道の闇をこれでもかこれでもかと突っ込んでくるのもいかがなものかと思うが
闇を放り込んだ作品にはそこに徹したことによる真がある
好きか嫌いかは別
核がしっかりしていると感じる
しあわせのパンは、なんだかふわふわしている
ふわふわしたままに徹したら、またそこに真を感じたかもしれない
しかしたまに現実をいれてくると妙に違和感があって、
浸りきることもできない
バイクで東京まで送るのもそう
野菜の洗い方も
お花が売っている出店も
栗の拾い方もイガは置いてゆくだろうとか
茹でた後の処理の仕方も、
商売ならこんなペースではやれないだろう
ただ好きに暮らすだけならスローにやればいいが
物干し竿も客をとめる施設を持つこのふたりの家が、
木にロープをかけてつくっているたいした量をかけられないスペースで
もてなしをできるような洗濯をこなせるんだろうか
おしゃれありき
小物や生活形態は大変おしゃれ
でもまかなえないでしょ?って
ときどき思ってしまう
しあわせのパンというスタンプを押してパンを箱に詰める
このときのスタンプは一字ずつはなれたスタンプを使っている
そして一字ずつ、心をこめて押す
少女のように乙女チックに
ものすごい手間
細かいことを言うが、本当にやろうと思ったら手間が半端ない
一字ずつ離れているスタンプをテープで固定していっぺんに押そうとはしない
合理性があってはスローライフを表現できないからだ
商売でそれが成り立とうと成り立つまいと、
スローでおしゃれな生活をみせる映像がこの映画では大事
このふたりで経営するパンとコーヒーの店、マーニ
泊まれる施設もあるマーニ
とても大きなおうち
この稼ぎで維持できないでしょ?と思ってしまう
こんなスローなロハスな生活で
マーニにやってくる客をもてなす形で、
ふたりのスタンスがわかる
客をもてなし触れ合うことで客が抱えた何かを緩ませてゆく
その解決法が夢物語で実効性がないように感じて仕方ない
ファンタジーなのか現実なのか
そのふたつをうまく融合しているのか、と言えば
上っ面だな、とわたしは思った
ゆえに癒されない
辛いことがあっても
りえさんとみずしまくんのように、
ふたりのことを想いあって生きてゆけばいいんだ…
となかなか思えないのは、このふたりのように生きるのが不可能だからだ
ただ北海道にくればのんきな田舎暮らしができるわけではない
みんなが大雪だ大雪だと騒いでいる雪が毎年降る通常降る
現実問題を無視したのほほんに感じてしまうのは道民だからかもしれない
心のよりどころにするにはファンタジーには足りず、現実としては浮いている
この映画を観た後に原作を読んだ
しあわせのパン
この中に月とマーニという物語が出てくる
マーニは自転車に乗った少年
月はマーニの友達
月は、太陽がまぶしすぎて邪魔だから、太陽をなくしてくれないか?とマーニに言う
マーニは、それはダメだよ、と言う
太陽がなくなったら君がいなくなっちゃうから
月は気づく
邪魔なものも自分を活かしているんだと
好きなものばかりに囲まれて暮らせない
でもマーニがいたら幸せだ
この本が大好きなりえさんは、
自分の生活の中で、”好きじゃないもの”がどんどん増えていって笑顔がなくなっていった
そうして東京でたくさんの”大変”がたまった頃、月浦で暮らそう、とみずしまくんがいった
月浦で暮らす二人は好きなものだけに囲まれている
北海道にも
”大変”があると思うが
ふたりにはない
月とマーニのように
お互いがいればそれで幸せ
これ「だけ」を感じることができなかった
いろいろ書いたが、じんとしたところもある
この話は3組の客をもてなすりえさんとみずしまくん、そして周りの人々を描いてゆく
という構成になっている
その3組目の客である、老夫婦の奥さんが
認知症だろうかあまり現実を把握できない中、パンを食べておいしいといった
御主人は未来を感じられなくてもう死のうとしていたのだが、
奥さんが、「おいしい!また明日もこのパン食べたい!」
と言ってにっこりと笑う姿をみて涙を流す
生きる理由なんて
明日またおいしいものが食べたい、でいいんだろう
食べ物をおいしいと感じること
あしたもこの笑顔がみたいと思うこと
そしてまた明日らから辛い毎日が始まっても、この想いがこれからを支えるだろう
ところどころいい
あと、原田知世さんをみるならとてもいい映画
知世ちゃんは本当にかわいい
自分より年上とは思えない
可愛いそして透明感
さらに声がすごくいい
雪に寝そべった時の笑顔
あどけない少女のようだ
反して
大泉洋はいつもの大泉洋ではない
しかしこの役は大泉洋でなくてもいい
大泉洋でもいい
探偵はBARにいる、のようにハマリ役ではなかった
一人目の客
・素朴なパンもいいですよ
二人目の客
・かぼちゃのポタージュはそれぞれ違う
三人目の客
・明日もこのパンが食べたい
日常のさりげない出来事から人は明日に向かって進む光をみつけようとする
よいお話だ
それでも心に響かなかったのは、
りえさんとみずしまくん
このふたりの生活が上っ面過ぎて、良いと思うことができなかったからだろう
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ふ~ん。。
楽しみにしてたのにネ?
ぷサンはスローライフに敵意があるデショ( ´艸`)
| けぃこ | 2012/01/27 19:50 | URL | >> EDIT