おおかみこどもの雨と雪 【映画】
女性が持つ母性
男性が求める理想の母性
この作品の母性は、男性が求める理想とする母性
わたしは高村光太郎を読んだ時のような気持ちになった
高村が智恵子に求めたもの
「荒涼たる帰宅」や「智恵子抄」を読んで この人は狂ってるな と思ったものだ
静かなる狂気
自分に智恵子の器が求められたとき応えることができるだろうかと
想像すると身震いした
「女側」の人間でなくとも、
女が自ら女を実感するという部分だけでなく、
「男側」から捉えられる女というのもまた、ひとつの本質というべきだろう
しかし、それもすべてではなく
あくまで「ひとつの本質」だ
多くそれは理想論であるが、
しかし理想と現実の狭間で揺れ動く不確かな像の、
その不確かさが逆説的に確かな女の像であるのだ
『おおかみこどもの雨と雪』で言うと、この「母性」が
男性側からみた女の姿である
男と女の場合、セックスを含み求め合う他人であるが、
母性の場合は他人ではないため、より一層「あるべき」とされる姿が映し出される
この作品をみて
ものすごく正直に誤解をおそれずいえば
気持ちが悪い
身震いする
子供を成人まで育てて思う女の母性と男が求める母性には深い溝がある
「ひとつの」真実の姿として捉えている感覚は受け入れることができるが、
それだけだと受け入れられない
片方からだけみているその姿を理想としたり好きであることは変えようがなく仕方ない
それ以外もあることが許容されているならば
「ひとつの本質」が「唯一の本質」であること
声高に主張をしない主張をされるたびに
足場が少なくなってゆき高いところから落ちそうで身震いする
この映画とは少し離れてみる
以前に「八日目の蝉」をみたときに、
「おおかみこども~」は男の視点映画であるのに反し
八日目の蝉は全く以って女の目線の映画だなと感じた
なぜなら、男はでてくるが、男の意志が一つも出てこない
男の人が何を考えているか、まったく描かれない
心理描写がない
女側から想像する男像が描かれているだけだ
「性」というものをみたときに、
男が女の本質を
女が男の本質を
真に「共感」という形で理解することは無い
思考や嗜好でなく、性、さが(母性でも父性でも)
自分と違う「性」に共感をした気分になるときはある
あくまでそれは気分、気のせい
わたしがよく例に出す、自分の男気基準は男組という漫画である、と
これももちろん「共感」で言ってはいない
共感するはずがないのだ
自分は女の性なのだから
男の哀愁も共感であろうはずがない
ただ、それをみて
愛おしい、と思うかどうかなのだ
共感という形では真にわかりあえないと言いつつも、
女からみた女だけが
真実の姿とはいえず
最初に書いた通り、
>「男側」から捉えられる女というのもまた、ひとつの本質というべきだろう
と思う
どちらか一方だけでは足りない
ゆえに分かちているのではないだろうか
深い溝がある
だからこそ埋めあおうとする
この映画は埋める余地がない
わたしの感想はこうなったが
十分、視聴にたえる作品と思う
自分が感じたこの感覚は、
高村を読んで、
この人、狂ってるな
と感じたなら
もしかして共有できるかもしれない


余談ですが、高村は好きです
突き抜けてるんで
おかしいことを否定しないんで
高村関連記事
「荒涼たる帰宅」
「ぼろぼろのじちょうかちょう ~放浪記5~」
ところがこれを世界標準だと言われると
ちょっ、待てよっ
と
なるわけです
こんばんはキムチタクヤです
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はろぅ♪
いつもながらストーリーが謎ネ★
ハイ、公式にいきますぅ~
CMではみたコトあるョ
狼男の人を好きになるんデショ
キャッ
| けぃこ | 2012/07/16 16:37 | URL | >> EDIT